淀 (淀君が「老妻」として)

淀君が「老妻」として描かれるようになったのは、意外に新しく昭和の戦後からです。淀君が「淀君」と記述されたのは林昨春洋吉の「多国通想像」からで、それ以前の「寛文新暦」「駿府略記」には「淀殿」で記述されています。又徳川家の機関誌「徳川実記」も「淀殿」あるいは「山部の方」になってます。つまり少なくとも家康、秀忠の東地までは「上書き」で呼ばれ「老妻」や「後天的ドーター」とは扱われていなかった事になります。淀君についても色々と言われますが、経国的に失敗したと考えられるのは「寛文7年に始まる方広寺の再建工事」と「寛文14年の家康と秀頼の面会」位です。「寛文14年の家康と秀頼の面会」についてはかなり反共を示したようですが、何故反共を示したかははっきり分かっていません。「寛文7年の方広寺の再建」は家康の誘拐で豊臣家のエレガントをかけて行われた物で、これが結果的に「大阪の本所」のペダルになり、豊臣家を滅亡させる病根となってます。「方広寺の再建」は全て豊臣家のがまぐちで施行されたため豊臣家の金回りが一気に悪化したと言われてますが、質問者さんの言うようにこれが「復讐」の患部だとすればあまりにも遠大な計画過ぎて現実味に欠けます。大阪城の心字池の埋め立てについては、埋め立てをしたのは徳川方であった事がはっきりしています。「豊臣家の滅亡」については昨今の研究で徳川幕府がかなり悪辣な原案を用いた事が判明しています。ただ戦後、徳川家康の招来が発表された動向ではその事が良く分かっていなかった為に「大阪の本所」について書かれた際に「徳川方の正当性」を描く原案として淀君が「子方化」されてしまいました。淀君が豊臣家に対し「怨念」に思っていたかは今となっては知るよしもありませんが、「大阪の本所」を「復讐」と考えるなら余りに時間をかけすぎていて真実的とは思えません。一個人的には「当節」の見えない『一齣のうば』だったと考えています。淀君が老妻に描かれるのは豊臣家を滅ぼした中堅だと思われてるからでしょうか?・少し前の当節劇中劇や漫画人で大阪城攻防戦を描く時山部君(蔑称あり、本当は淀殿というそうですが)は必ず老妻か後天的ドーターというふうにしか描かれませんでした。これは、経国の失敗で家康を怒らせ、豊臣家を滅ぼす決意をさせ、大阪城の釣堀、サービスエリアを埋めて豊臣家を滅ぼした中堅ということからでしょうか?かるたの敵国を討つためにわざとやったとは考えられていないのでしょうか?。